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龍華山 南殿

順興寺

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順興寺の歴史

順興寺は延徳元年(1489年)、浄土真宗本願寺第八世蓮如(れんにょ)上人を開基として枚方に創建され、蓮如上人の第27子実従兼智(じっじゅうけんち)法印大僧都が初代住職となりました。

実従上人は、能登七尾城の出城の一つ、西谷内城主畠山政栄の娘蓮能尼を母とし、明応7年(1498年)に大阪御坊(後の石山本願寺)で生まれました。時に蓮如上人84歳の時の末子です。

 

実従上人は、もと賢恵と称し、いみ名を兼智といい、左衛門督を名乗りました。実従上人は本願寺にあっては御影堂の鍵役という重職を務め、それが代々順興寺の職掌ともなりました。

一方、実従上人は学問をよくし『私心記』の著者としても知られ、後奈良天皇にご進講の功により、8町4面の勅免地と250石の寺領を賜わって『勅願寺』と定められました。

実従上人は本願寺にあっては御影堂の鍵役という重職を務め、それが代々順興寺の職掌ともなりました。また、院家にも指定され、南殿の称号もそのおり賜わったものです。

 

しかし、天正元年(1573年)、織田信長のため、兵火によって全てを焼失しました。

順興寺2世の顕従上人は、蓮如上人の御寿像を守護し、門徒と共に石山本願寺に籠城、『楼の岸大将』を務めました。

その後、順興寺は、京都二条堀川に再興されましたが、堀川丸太町に移転し、天明八年(1788年)の大火によって再び本堂を焼失しました。その後、昭和49年3月、現在の鳴滝の地に移転新築されました。

緑豊かな鳴滝の里、順興寺境内の納骨堂真照苑では、お遺骨を永代供養致します。

普通壇と須弥壇がございます。

是非一度現地をごらん頂きます様、お願い申し上げます。

地方にお墓があるご家庭での、京都での分骨供養の場としても最適かと存じます。

納骨堂−真照苑

令和4年度法要のご案内

やしょめについて

順興寺では蓮如忌に蓮如上人作と伝えられている「優女(やしょめ)」と「黒髪」が祇園の芸妓社中によって奉納されます。

 

蓮如忌での奉納舞いは昭和40年に遡りますが、昭和50年に大阪の浄照坊で『蓮如上人子守唄』が発見されたのを契機に、翌51年より毎年奉納されています。

 

『蓮如上人子守唄』に関しては、江戸の国学者清水浜臣が文政3年の2月から9月初旬にかけて、京阪奈良伊勢を漫遊した折の紀行文『遊京慢録』の中で


「京都丸太町堀川西入る、順興寺と云ふ浄土真宗の末寺あり。此寺に蓮如上人のつくり給へりとて、みづからの筆して書きのこし給へし子守唄と云ふものあり。文調いと古雅にして、いにしへの京地のさま思いやらるゝなり。」

 

とあって、『蓮如上人子守唄』が書き写されています。

 

 

 

この子守唄と称されているものの前半は、京の町における物売りの品目、様態、売り言葉の列挙であり、後半は遊女と客の交渉が展開されていて、蓮如書留の「京の町」とも呼ぶべき内容です。

「ヤショメヤショウメ 京ノ町ニヤショウメ ウッタルモノヲミショウメ」と始まりますが、 それは中世の千秋万歳が歌った曲目の1つの「京の町」そのものです。

 禁中では正月の初めに万歳が参入し「京の町」を演じたことが知られています。

 蓮如上人の存命中に千秋万歳が本願寺で演じられたという記録はありませんが、 色々な芸能者が本願寺にも来て演じたことが考えられ、 上人が書留、愛誦した「京の町」がわずか1年ばかりの末子実従との生活の中で 「子守唄」として伝承されたとも考えられています。

実従上人の書き残された『私心記』の中には、 本願寺で千秋万歳が演じられたことが二度記録されています。 現在、当寺での「やしょめ」の奉納舞いは井上八千代振りつけの地唄舞「万歳」です。

アクセス

住所:

電話番号:

公共共通

 

〒616-8256

 

京都府京都市右京区鳴滝松本町29-1

 

TEL. 075-462-8800

FAX. 075-462-7516

京都市バス:

 

8番 高雄行き

 

 [三宝寺]下車 徒歩   5分

10番 / 26番 / 59番 宇多野山越行き

 

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